英語は「誰のか」や「いくつのか」にうるさい言語 / 冠詞や可算・不可算名詞

2019年9月

英語の名詞の直前には必ず付けなければならないものがある。
誰のものかわかっている場合は「誰の」、数量もわかるならば「いくつ」、もしどちらもわからないなら単数を表す「a/an」、しかし明らかに複数が適切だと思われる場合は「some」「any」など、そして特定のものに言及している場合は「the」が付く。
名詞の直前に全く何も付かないのは不可算名詞か世の中のそれ全てが対象の場合である。そしてその場合は前述の単数を表す a/an は不自然だから可算名詞は必然的に複数形になる。
そしてこれらを正しく使うためにはその名詞が可算か不可算かを把握する必要もある。

たかが冠詞されど冠詞

冠詞の使い方や可算・不可算名詞の使い方は、日本語を母国語とする人(以下日本人と称す)にとっては文法よりもやっかいなものである。
しかも英語ネイティブには自然に身についているものだけに、日本人が冠詞や「誰の」や「いくつの」を付け忘れたり可算・不可算名詞を間違えると英語ネイティブには気になるらしい。
たぶん日本語で例えれば「猫が1」と言うべきところを外国人が間違えて「猫が1」と言ったときに感じる違和感くらいの程度だろうが。
(全くの余談だが猫好きの間ではもっぱら猫の助数詞は「1人」「2人」である。)

以前見た洋画で男性が「I thought I saw a rat.」と言った時、それに驚いた女性が「A rat?!」と返していて、"やっぱりいつでも a は必ず付けるんだなあ"と感心したことがある。
日本人の私は、驚いて咄嗟に発する英単語だと冠詞を付け忘れることなんて未だにあるからだ。
やはり英語圏の人には冠詞をつけることは自然に身についているのだ。

英語を習い始めたときにサラッとだけ教えられ、いかにも「たいしたも位置づけじゃないです」的な存在の冠詞だが、それは日本人であるがゆえの錯覚であり、そして日本人であるがゆえに最も理解するのに時間と経験を要するものである。
だから、英語学習の初級段階から常に重要な品詞として意識しておくべきだと私は思う。

英語の長文を確実に把握しようとするとき、冠詞はとても重要なキーワードとなる。英語とはそういう言語なのだから。
a なのか the なのかで指している名詞を確実に把握できるし、冠詞の位置でどこからどこまでが1つの名詞句なのかが判断できるし、そして名詞にも動詞にもなり得る単語だとその直前に冠詞があれば名詞扱いなのだと一目で判断できる。

漢字がなくひらがなやカタカナだけで書かれた日本語の文章はパッと見では意味が把握しづらいように、おそらく冠詞がなかったり可算・不可算に無頓着だったりする英文は英語ネイティブにはパッと見では把握しづらいかもしれない。

名詞の直前には必ず何か付く

名詞の前には a / an / the などの冠詞または「誰の」を表す my / your / his / her / their / its などの所有格代名詞、そして複数の場合は数量を表す two / three bags of / some / any などの形容詞や形容詞句が必ず付く。 まず可算名詞の単数で全く何も付けないということはあり得ないし、複数で数量を付けないのはこの世のそれ全てを指している場合だけである。

可算名詞の場合

We have a dog.
私たちは犬を(1匹)飼っている。
「a =1つ」ではあるのだがわざわざ1匹と訳す必要もない。 英語の言語上のルールに過ぎず、これを伝えられた人が無意識に「1匹の犬」をイメージできるためのもの。
しかし、英語ネイティブには自然と身に付いた言語ルールなので、逆に a がないと無意識で
「えーっと、何匹?」とはなってしまう。

She has two dogs.
彼女は犬を2匹飼っている。

I like dogs.
私はが好き。(犬という生き物はどれも好き)

He doesn't like small dogs.
彼は小型犬が好きじゃない。(小型犬はどれも好きじゃない)

不可算名詞の場合

不可算名詞でも必ず数量を表す形容詞または形容詞句が付く。
基本的に何も付かないのはこの世のそれ全てを指している場合。(後述するように付かないときもある)

We bought a carton of milk at the store.
私たちはその店で(1本の)牛乳を買った。

I have some money.
私はいくらかお金を持っている。

He doesn't like celery.
彼はセロリが嫌い。(セロリというものをどれも好きじゃない)

「誰の」かがわかっている場所には所有格をともなう

My son graduated from The University of Tokyo.
(私の)息子は東京大学を卒業した。
日本語では「誰の」かを確実に伝えるときにのみ「私の、彼の、彼女の、彼らの、あなたの、それらの」をつけるが、英語では my, his, her, their, your, its などの所有格は、誰かの家族や友人や恋人や物である限り必ず付ける。
これもまた英語ネイティブには自然と身に付いた言語ルールなので、上の例文で my がなければ伝えられた人は無意識で「えーっと、誰の息子?」となってしまわないまでも「Your son?」と訊き返されることはある。

冠詞 a と the

a と the の一般的な違いはインターネットで散見できるので、改めて記すことでもないが、a は「一般的にたくさんある中のどれか1つ」で the は「特定の物事」や「話している相手も知っている物事」や「世の中に1つしかない物事」を指す。

My friend rescued a kitten two weeks ago. The kitten was very weak at that time, but now she is jumping around in the room.
友人が2週間前に(とある)子猫を保護した。(その)子猫はそのときは大変弱っていたが今は(友人の)部屋中を走り回っている。

この例で最初から kitten に the を付けて the kitten としたなら「えっ?どの子猫?」となるし、次の文章の主語 The kitten が A kitten としてしまうならば「え?また別の子猫の話?」と混乱しないまでも違和感はある。
そして in the room の the が a ではない理由は、話の流れからどこかの部屋の1室ではなく友人の部屋に決まっているからである。

I play the guitar. 楽器の冠詞が the になる理由

楽器に付く冠詞がなぜ the なのか疑問に思う人も多いようだ。 だが、楽器だからっていつも冠詞が the になるわけではない。 内容によって a にもなるし無冠詞になることもある。
一般的に示される例文が「I play the guitar.」だから、楽器の冠詞は必然的に the となってしまうだけのこと。
これが「ギターを買った」という内容だとすれば「I bought a guitar.」のように冠詞は逆に a じゃなきゃおかしい。
しかし、知人が自宅に来て自分のギターをマジマジと眺めているときに「そのギターは先週買ったばかり」という内容を述べるなら「I bought the guitar just last week.」のように冠詞は特定の物につける the の方が自然。
さらに言うなら「フェンダーのギターを弾いた」なら「I played a Fender guitar.」のように、メーカーやタイプも述べるときは冠詞を a にすることもある。
それらの違いは、「その楽器をひとまとまりのカテゴリと捉えている(the / 無冠詞)」 のか、それとも「1台の楽器を指している (a)」 のかという点である。

楽器の冠詞が the または無冠詞

通常、個人的な楽器のスキルとして述べるときには the を付け、楽団での演奏を述べるときには無冠詞であることが多い。

He plays the piano.
He plays piano in the orchestra.

the にしても無冠詞にしてもこの場合の楽器は、1つ1つの楽器を指しているわけではない
上記の例で言えば1台のピアノのことを述べているわけではなく「ピアノという種類の楽器」を弾くことを述べているのだ。だから冠詞は a に成り得ない。 もし「I play a piano.」と冠詞を a で述べるならば、「What piano?」と訊き返されることもある。

the と無冠詞の区別は大して差はないし、理由も実は誰にもわからない。尤もらしいロジックも目にするが所詮それも憶測でしかない。 そういうわけで憶測の域を出ないが、以下のようなことだと思われる。

I play the piano.
ピアノという種類の楽器を弾けます。ピアノなら世界中のどのピアノでも弾きます。

I play piano in the orchestra.
オーケストラの中のピアノのセクションで演奏しています。

楽器の冠詞が a のとき

楽器スキルとは関係なく楽器そのもの1台のことを述べるときの冠詞は a である。基本的な a の使い方と同じ。

I bought a guitar.
(1本の)ギターを買った。

I played a Fender guitar at the gig.
ライブで(1本の)フェンダーギターを演奏した。

「the 楽器」と「a 楽器」の比較

I played the guitar in the band.
バンドでは(スキルとして)ギター(という種類の楽器)を弾いた。

I tried playing a Les Paul guitar at the guitar shop. It was awesome!
ギターショップで(1台の)レスポールギターを弾いてみた。めっちゃかっこよかったぜ!

He plays the Les Paul guitar. He is so cool!
彼は(スキルとして)レスポールギター(という種類の楽器)を弾くんだ。かっこいいね!

We have a piano, but actually none of us can play the piano.
うちに(1台の)ピアノがあるが、実は誰も(スキルとして)ピアノ(という種類の楽器)を弾くことができない。

I have tried to play the piano, but I couldn't.
(スキルとして)ピアノ(という種類の楽器)を弾いてみたことはあるが、弾けなかった。

洋画のタイトル

新聞のタイトルや広告のタイトルなどは a, an, the などの冠詞や my, his, her, their, your, its などの所有格は省かれるが、洋画のタイトルには冠詞が付くものも多い。
それは映画制作者の感性や意図だけだからである。
少なくとも新聞の見出し付けには多少のルールがある。冠詞や所有格やbe動詞を省く以外に過去形は現在形に受動態は過去分詞になど。
それらは決められた文字数以内で読み手にどんな記事かを一目で伝えるものだからである。
映画のタイトル付けも根底の目的は同じようなもので、観客への印象付けなどが最大の目的だ。しかし、そこには新聞タイトルのようなルールさえも全く存在しない。 映画タイトルに a/an が付くのか the が付くのかもしくは何も冠詞を付けないのかは制作者の感性と意図のみである。

以前見た School of Rock という映画のメイキングシーンで、主人公の Jack Black がタイトルに the を付けなかった理由をコメントしていた。
これを Jack Black は真剣な表情でコメントしていたが、コメディ映画のメイキングなのでおそらくこれも冗談交じりで答えたのだろう。

I think movies have "the" at the beginning tend to be more successful. That's my own market research that no one has told me that's case. Although Titanic has no "the" ... What was it "the Titanic"? Was it just "Titanic"? Ahhm so I guess that's why we went with just School of Rock. 'Cause with just Titanic. You know what, I'm wrong. Movies with "the" at the beginning are usually bombs! That's why we went with School of Rock!
タイトルの最初に「the」を付けると成功する傾向があると思うんだよ。これは僕のマーケットリサーチによるものだ。このケースは誰も教えてくれなかったことだけどね。「タイタニック」には「the」は付いてなかったけど…「ザ・タイタニック」だったか?「タイタニック」だけだった?んー、そう、だから僕たちも「スクール・オブ・ロック」にしたんだ。(the のない)「タイタニック」だったから。えーっと、さっきは言ったことは間違い。「the」の付く映画はだいたい駄作だ!だから「スクール・オブ・ロック」にしたんだ!

映画のタイトル付けってこんなものなの?と当時は少々驚いた。なぜなら映画タイトルもタイトル付けの定義や文法的なものに沿っているとばかり思っていたからだ。
映画のタイトル付けは製作者サイドの感性と意図100%にほかならない。おそらく「the がない方が(またはあった方が)響きがいいよね」程度のこともあるだろう。

最近の洋画の邦題はカタカナに置き換えただけのものも多いが何故か the が省かれていることが多い。「洋画タイトルをカタカナにするだけなら the を省くんじゃない」という人もいる。タイトルに the を付けることに作者の意図があると考えられるからだ。
それにしても昨今の洋画の邦題はヘンテコな和訳ばかりで、どうかすると原題とは似ても似つかないタイトルも数多くある。ひと昔前のような素敵な和訳のタイトルを見ることができないのは残念である。

可算名詞・不可算名詞

冠詞を正しく使うためにはその名詞が可算 countable か不可算 uncountable かを把握しておくことも必須である。
可算名詞とは1つ2つと数えられる名詞 [pen, cat など] のことであり、不可算名詞とは液体 [milk, oil など] や粉類 [sugar, flour など] や穀類 [corn, rice など] や束になってる野菜 [spinach, asparagus など] のような量計が一般的なもの。

見えるものはそういう基準だが見えないもの、例えば状態や気持ちなども可算名詞 [state, situation, location] と不可算名詞 [information, happiness, business] がある。

そして見える物質にしても見えないものにしても、状況によって可算名詞・不可算名詞のどちらにもなり得る名詞もある。[food, feeling, paper]
さらに可算名詞だけど複数形で使うのが一般的ですよ [circumstance(s)] というものまであったり、集合体を1つの単数としているので不可算名詞扱いです [furniture] というものもあったり、またさらにはアメリカでは集合体を1つとしての扱いですけどイギリスでは単数扱いなんですよ [family] というものまである。

可算名詞・不可算名詞の判断

可算・不可算を判断するのは辞書を引くのが確実である。
英語の単数・複数の使い方は日本語の感覚とはおおよそ別次元のことであり自己判断すると意外に違っていることも多い。

例えば cabbage は数えられそうだが不可算名詞である。
キャベツを1玉と言うきは a cabbage なんてことは言わずに a head of cabbage と言う。
束になっているので不可算かと思いきや mushroom や leek は可算名詞なので s を付けて mushrooms や leeks と言う。
candy は基本的に不可算だがそれ1個1個を指すときは可算になるし、food は不可算だが種類を言うときは可算になる、paper は不可算だから1枚の紙を指すときは a piece of paper と言うが新聞を意味するときは可算名詞で a paper と言うことができる。

おそらくその判断基準は、日常の中でそれを1つ2つと数える方が適切なのか、それともひとまとまりの量やカテゴリとして捉えた方が妥当なのかの違いなのだろう。
例えばキャベツは1回の料理でキャベツ1玉を丸ごと使うことはあまりなく1枚2枚 a piece of cabbage / two pieces of cabbage 単位で食べることが多い。
しかし買うときは1玉なり半玉なりが通常である。だからキャベツをいつでも a cabbage / two cabbages と表現するのは無理がある。
そういったことから不可算にする方が妥当だという見方もできる。

Two coffees please.   液体なのに可算名詞?

coffee は液体なので不可算名詞であるはずだが
「コーヒーを2杯ください」を「Two coffees please.」
「アイスコーヒーを2杯ください」を「「Two iced coffees please.」
と言うこともある。
「カップに入ったコーヒー」や「グラスに入ったアイスコーヒー」が可算名詞扱いになるのだ。

通常、液体は不可算名詞だからコーヒーの1杯や2杯は a cup of coffee / two cups of coffee が正しいと教示される。
それはそうなのだが、日常では a coffee / two coffees という言い方もする。
やはり前述したように、可算と不可算のどちらで表現した方が日常的に適切なのかがポイントになっているのだ。

例えば、喫茶店で店員さんを呼んでコーヒーやアイスコーヒーをお願いしたときに、コーヒー豆やボトルに入ったコーヒーが出されることは考えにくい。
だからわざわざ two cups of coffee や two glasses of iced coffee と言わなくても two coffees や two iced coffees でちゃんとカップやグラスに入ったコーヒーやアイスコーヒーが出される。
また、コーヒー豆が切れそうなときは「We need a bag of coffee.」とか、缶コーヒーがいくつか必要なときは「We need some cans of coffee.」とか、ボトルに入ったコーヒーが必要なときは「We need a bottle of coffee.」というのが適切ではあるが、お互いにどんなコーヒーかわかっている場合には「We need coffee.」とだけ言うことは日常的にある。

I need three more Mr. Yamadas.   固有名詞なのに可算名詞?

固有名詞は複数形にならなさそうだが、時には固有名詞も複数形になるときがある。
一般的な教示は同じ名前の人が複数いるから固有名詞でも複数形になるというもの。

There are three Yamadas in the office.
会社には3人の山田さんがいるよ。

実はこれ以外にも「〇〇さんのような人」という意味で可算名詞扱いになるときがある。

Mr. Yamada is a really good customer. We need many more Mr. Yamadas.
ヤマダさんは本当に良いお客さんだ。弊社はもっとたくさんのヤマダさん(のようなお客さん)が必要だ。

やっぱり文化の違いでしかない

英語が冠詞や所有格に厳格なのは数量や誰のものかにこだわる言語だからだろう。
日本語では前述の例のようにキャベツ1玉とかキャベツ1枚という助数詞でどのくらの量かはすぐに想像がつく。
1個1枚1匹1頭1斤などの助数詞があることもまた日本語が数量にこだわらない言語文化になった要因のひとつもしれない。

想像の域を出ないが、言えることは、英語は数量もしくは誰のものかに重点があり日本語は物そのものに重点があるということ。
英語の a cup of coffee, a bag of coffee, a bottle of coffee は日本語のコーヒー1杯、コーヒー1袋、コーヒー1本に相当するので日本語で言うところの助数詞の代わりと思えなくもないが、しかし、可算名詞はこんな言い方しない。
「犬1頭」は「a dog」である。1頭の助数詞「頭」に匹敵する語はない。しかし、別に1頭と述べる必要がないときでも英語では必ず a を付けて「a dog」と「1頭」であることを表現する。
だから日本語の助数詞と同等としては考えられない。やはり英語は「数量」に重点を置いていることから成る言語なのだろうと思う。

英語やヨーロッパ言語にはなぜ単数複数形があるのかという理論をインターネット上でも様々な人たちが様々なセオリーを展開しているが、言葉は長い歴史を経て培ってきたものだから現代に生きる私たちがアレコレ尤もらしい説を述べても所詮憶測でしかない。私の前述も然りである。
逆に日本語に1個1本1匹1頭などのような助数詞があることは英語やヨーロッパ言語の母語話者には理解できないだろうし、それを母国語としている私たち日本人になぜ助数詞があるか訊かれたところで理由はわからない。
言語学者ならわかるのかもしれないが、それでもやっぱり憶測でしかない。

言葉は長い歴史の中で培われてきたものなので、母国語でもその言葉ができるまでの背景を知っているわけでもないし、例え色々な歴史的背景を並べ立ててみてもやっぱり憶測でしかない。
それらの憶測もまた外国語を学ぶ醍醐味ではあるのだが、コミュニケーションとして外国語を学ぶ時はそういう文化だと単純に受け入れた方が、よりその言語の自然な表現を習得できる。

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