細かい違いや丁寧さを気にしすぎる日本人

2019年5月

「これとこれはどう違うのですか?」「これとこれはどちらが丁寧ですか?」
英語のフォーラムなどでよくこんな質問を見かける。 熱心な学習者ならばこんな疑問が湧くのも当然だと思う一方で、たいした違いでもない細かいことを気にする人も多いのに驚く。

ニュアンスとは言葉を使う経験の積み重ねで得るもの

細かな違いの質問で多く見かけるのが、ニュアンスを知りたいというもの。
しかし、そんなものは説明だけ受けて理解できるものでもない。
なんとなく理解できるかもしれないが、ニュアンスは言葉の持つ意味や定義と異なり、その言葉の雰囲気や微々たる色具合といった「表現の類」なのだから使いながら習得していくしかない。
極端な話、プレゼントを戴いたときに述べる「Oh, thank you!」とケンカしたときに言い放つ「Oh, thank you!」だってニュアンスというものは違う。

だから、そんな質問を見ると「つべこべ言わずに使ってみなさい」と辛辣に思ってしまう。
どうかすると、コンテキスト(文脈や流れ)も示さずに単語だけや文章の気になる一部分だけを提示して違いを尋ねているものもある。
言葉は使い方でずいぶん変わってくるのに、コンテキストも示さずに違いを教えろなんて、言葉をコミュニケーションツールとして捉えていないのだろう。

とはいうものの、思い返せば私が英会話初心者のころもそうであった。
今考えるとどっちでもいいようなことでも、やたら違いが知りたくなった。
ただ、私が単純なだけなのか「同じ意味」と言われれば「そうなんだ」としか思わなかったし、ましてやニュアンスの違いを求める質問なんて、頭の隅にも発生しなかった。
今その違いを説明できるとすれば、それは英語を使ってきた経験によるものである。

言葉の細かい違いはネイティブだって説明が難しい

私の初めての英語の先生は日本語が流暢なアメリカ人だった。
先生と言っても当時の趣味であったバンドの関係者で、ごく一般的なアメリカ人だった。
まだ20代前半と若くしてアメリカ海軍を辞め、日本でアルバイトを転々としていたようだ。
その職歴の中に大手英会話スクールで小さな子供に教えた経験もあるとは言っていた。

ある日、前置詞の使い方を尋ねた時のことである。
「なぜここは at なの? それなのにここはなぜ in になるの?」
最初は彼は悩みながらも違いを教えてくれた。
しかし、当然、その教えられた条件に当てはまらない言い方もある。
言葉は数式ではないのだから、そうルール通りにはいかない。
前置詞なんてその代表選手のようなものだ。
だからまた尋ねる。
「この間の説明では、こんなときは on だったのに、なぜこれは at なの?」
彼はとうとう開き直ったように言った。
「その都度、覚えるしかないよね」
「えー、覚えるしか…なんかパターンとかないの?」
すると今度は彼が私に質問した。
「そしたら訊くけどさ、”ビールがいっぽん、にほん、さんぼん”って同じ字を『本』て書くのに何で言い方が違うのさ?」
私は言葉に詰まった。
確かにそうだ。だけど「なぜか?」と訊かれても答えられない。

私の母国語は日本語だが、別に日本語のエキスパートでもないのだから、自然と覚えた「いっぽん、にほん、さんぼん」の発音の仕方がなぜ違うかなんて咄嗟に説明できるはずがない。
それと同様で、彼にとっての母国語はアメリカ英語だが自然と覚えた前置詞の細かい使い方など説明できるはずがないのだ。
そのときの彼の言い分で目から鱗が落ちたようだった。
おそらく彼も流暢な日本語を話せるようになったのは、パターンとかルールなどにとらわれず、コミュニケーションを図りたい一心で、その都度覚えてきたことの結果なのだろう。
それからは前置詞の使い方は「覚えるしかない」と思って都度覚えるようにした。

日本人が求める細かい違いは英語ネイティブには気にならないレベル

その後、アメリカ海軍を定年退職した日本語を話さないアメリカ人先生から英語を習った。
Can I 〜? May I 〜? Could I 〜? の違いなど、私が現在インターネットを見ながら
"なんで日本人はそんなに「違い、違い、違い」ってうるさいのかなあ"
と思うような質問を当然のように私もこの先生にしていた。
いつもその先生の答えは9割方「same, same」だった。

例えば「Can I have an iced coffee?」の Can I の部分が Could I になろうと May I になろうと同じである。 「アイスコーヒーくれますか?」 という内容を普通に言っているにすぎない。
Can I だから丁寧じゃないとか May I だから丁寧すぎるとかいうわけでもない。
そこにいくらか丁寧さの違いがあったとしても、それは微々たるもので「どっちだっていいよ!言いやすい方を言ったら?」という程度の話である。
はっきり言って、この内容でニュアンスや丁寧さに固執するだけ時間の無駄である。

勿論、Can I も Could I も May I も、コーヒーを注文する時だけに使うわけではなく、使う状況や内容はそれこそ無数にある。
その中で Can I / Could I / May I のいずれか1つが最も相応しいという場面がないではない。
しかし、そんな例はパッとは思いつかないくらいマイノリティである。

パパウシは、今までのアメリカ人先生が「same」と答えていたことでも詳細を的確に説明するが、別に今までの先生が間違っていたり劣っていたりしたわけではない。
やはり、同じ意味や定義の表現は同じでしかなく、説明によって微少な違いがあることがわかるだけで、結局、実際に会話や読み書きで使うのはどれを使っても大した差はない。
どれを使うかっていうのは、その微少な違いによるものではなく、むしろ個人の好みや口癖だったりもする。
例えてみれば、明治の板チョコかロッテの板チョコかくらいの違いで本質的な板チョコという点では全く同じなのだから、食した後に体に影響する栄養素的なものは同じであるはずだ。どちらを購入するかは本人の好みの問題である。
パパウシの説明からは「使い方のルールではなく、その言葉の内容を重視するべきだ」という、よく考えれば当然のことに毎回気づかされる。

きっちりした日本人の性質なのか、日本人がやたら細かく気にする違いは主にルール的なもので、英語というだけで、内容よりも言い方のルールに重点を置く人が多いように見受けられる。
それらは、英語ネイティブにとって、日常的に話したり書いたりする上では大した違いじゃないのにだ。

英語の丁寧さと日本語の丁寧さは違う

日本人は「丁寧かそうでないか」にやたらこだわる人が多いように思う。
日本語には丁寧語、尊敬語、謙譲語など丁寧な表現にも種類があるくらい、相手を気遣う文化だからなのかもしれない。
これも「こだわり過ぎだよ!」と言いたくなるような人もいるかと思えば、逆に、英語にはそれに相応する表現がないと思い込んでいる人もいるようだ。
日本語ほど丁寧さにこだわってはいないが、英語には英語の丁寧な表現がたくさんある。
しかし、英語の丁寧な表現は、日本語のそれとは別物である。

私が知る限り、アメリカの日常では日本人がこだわるほど丁寧な言い方に重きを置いていない。
店員さんでも、丁寧かどうかよりもフレンドリーに接する事ができるかどうかが重視される。
言葉も比較的フレンドリーな言い方が多い。
でもだからといって、当然、スラングの羅列や汚い言葉を使うことは論外だが。

フレンドリーさが求められるものの、言葉使いで教養を判断されるのもまたアメリカの特徴だ。
上述したようにスラングの羅列や汚い言葉を使うことに対して厳しい目が向けられるのは当然のことだが、 家族間でもフレンドリーな仲でも「Would you」や「Could you」など丁寧と言われる表現が日常的に使われる。 まさに「親しき仲にも礼儀あり」である。

しかしながら、アメリカ人同士が日本語の「〜して頂けますでしょうか」という感覚で「Would you」や「Could you」を使っているとは思えない。
Would you / Could you は Would you / Could you であり、いつでもかつでも「〜して頂けますでしょうか」という和訳のニュアンスと同じではないということだ。
和訳でいくらニュアンスを教わったところで、実際の原語のニュアンスとはかけ離れていることも多いということである。

他国語を学ぶとき、母国語と同じように考えてはいけない。
アメリカの日常では「丁寧さよりもフレンドリー」に重きが置かれるが、親しい仲でも丁寧と言われる言葉を日常的に使われるし言葉遣いで教養を見られることもある。
一方、日本の日常では「フレンドリーよりも丁寧さ」に重きが置かれて、ビジネスや接客では「丁寧すぎる言葉や前置き」が良しとされるが、家族間や親しい友人間ではそんな「他人行儀」な言葉は使わない。
こんなにも文化背景が違うのに「Would you / Could you = 〜して頂けますでしょうか」という図式にしてしまうことには無理がある。
他国語を学ぶことはその国の文化を学ぶことである。文化背景を知り、その国の「原語」を掴んでこそ、言葉の細かいニュアンスの違いや丁寧さを初めて理解することができるのである。

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