アップルサイダー

2019年4月

アップルサイダーとの出会い

アップルサイダーという、アメリカでは一般的な飲み物がある。
特にサンクスギビングからクリスマスのホリデーシーズンによく出回るようだ。
私が初めてこのアップルサイダーを飲んだとき、あまりの美味しさに感動してしまった。
失礼ながら、アメリカにもこんなに美味しいものがあるのかと思った一品である。
実際のところ、アメリカにもたくさんの美味しい食べ物や調味料やお菓子があるのに、どうしてこうも日本で売られているアメリカの食べ物は言っちゃ悪いが不味いものが多いのだろうか。
だから、アメリカを良く知らない、または興味のない日本人には「アメリカの食べ物=不味い」という先入観が植え付けられるのだろう。

さて、私が初めて飲んだアップルサイダーは、 ALPINE社の Spiced Apple Cider というドリンクミックスで作ったものだった。
10年ほど前のホリデーシーズンも間近の11月初旬、ミズーリ州に住むパパウシの妹から送られたギフトの一つであった。
そのミックスのパッケージの写真から「飲み物なのかな?」とは認識するものの、始めて見る物なので「へーこんなものがあるのか」程度にしか思わなかった。
早速試してみようと、箱の裏のインストラクションを見ながら、開封してミックスのパウダーをカップに入れてお湯を注ぐ。ちょっぴりシナモンの香りが漂う。
spiced ってどんなスパイスが入っているのだろうと思ったらシナモンであった。
少し口をつけて見る。
「……えっ?!美味しい!」
ゴクゴクゴクゴクゴクッ!一気に飲み干してしまった。
「リンゴです!」と主張する甘酸っぱさ、後味の残らないほどよい甘さ、ほんのり香るシナモンの心地よさ、この世の中にこんなに美味しい飲み物があろうとは驚きであった。
もうそのときからこのアップルサイダーの虜になった。
冬になる度に The Foreign Buyer's Club というお店から購入している。

アップルサイダーって本当はお酒

日本語でサイダーといえば炭酸水のジュースのことだが、英語の cider はシードル(リンゴ酒)のことである。
私を魅了したアップルサイダーにはアルコールは入っていないが、通常は英語で cider と言えばアルコール飲料のシードルを意味する。
cider の英語読みが「サイダー」で、フランス語読みが「シードル (cidre)」というだけのことで両者は同じものだ。
apple cider の定義は、どうやらアメリカとイギリスでは若干違うらしい。
イギリスでは「リンゴ酒」のことを指すが、アメリカではアルコール飲料の hard apple cider とアルコールを含まない sweet apple cider とがある。
私を虜にしたのは sweet apple cider の方である。 辞書によっては「リンゴジュース」とも記されているが、これが単にリンゴをすりおろして作るリンゴジュースとは訳が違う。
sweet apple cider は、リンゴを数時間から一晩、シナモンやグローブなどの香辛料と煮込んで作られるものである。

その昔、ヨーロッパのリンゴは食用ではなかった

リンゴはもともと食用ではなかったというからこれまた驚きである。
甘酸っぱくて美味しい果物であるリンゴは、比較的近代になって品種改良されたものらしい。
それまでのリンゴは、タンニンが多く渋かったり苦かったりして食用には適しておらず、もっぱら絞って発酵させて飲むのが普通だったとか。
だからリンゴのキャリアは、フルーツとしてよりもアップルパイよりもアルコール飲料としてのアップルサイダーが一番長いのである。

そこで変な疑問が湧く。
そしたら、2000年前にアダムとイブが食したリンゴは不味かったのか。
しかし、どこにも
「イブは蛇にそそのかされてリンゴを食べてみましたが不味くてペッと吐き出しました。」
なんていう記述はなさそうだし、それどころか、最初にイブが食べたら甘くて美味しかったのでそれをアダムにも分け与えたという話である。
私の家系は仏教である上に私自身はほぼ無宗教なので、その神話が真実だと思ってはいないが、少なくともそのストーリーをこしらえたのは、救世主とはいえ食べ物の味がわかる生身の人間だったのだろうし「リンゴ=甘くて美味しい果物」という前提の元にあるストーリーなのだろうから、どうも当時のリンゴの味が気になってしまった。
しかし、どうやら、禁断の果実はリンゴであるという確証はないらしい。

"ラテン語で「善悪の知識の木」の「悪」の部分にあたる malus は「邪悪な」を意味する形容詞だが、 リンゴも malus になるため、取り違えてしまったか二重の意味が故意に含まれていると
 読み取ってしまったものとされる。"

とウィキペディアの禁断の果実には書かれてあった。なるほど納得である。
そうすると一般的に禁断の果実はリンゴだと伝えられるのは比較的最近の脚色なのだろうと思いきや、 早くは12世紀のヨーロッパではすでに禁断の果実としてリンゴが登場したようだ。
それは、上述の malus という単語が「悪」と「リンゴ」の両方を意味する同音異義語であることが、初期のクリスチャンたちに「禁断の果実はリンゴ」というアイデアをもたらしたらしい。
なので、やはりリンゴは実際には食されていなかったのだろう。

では、なぜ、長い歴史で食用ではなかったリンゴが近代になって品種改良されたのか。
それはアメリカで1920年に施行された禁酒法が原因らしい。

ヨーロッパのアップルサイダーの歴史

リンゴの木は紀元前1300年にはナイル川沿いに存在していたらしいが、その頃に古代エジプト人がリンゴをシードルにして飲んでいたかどうかまでは不明である。
しかし、紀元前20世紀にはすでに、古代エジプト人はビール醸造の技術を持ち、アルコール度数10%のビールを堪能していたというから、彼らがリンゴを発酵・醸造させてアルコール飲料として楽しんでいた可能性は十分にある。

紀元前55年には、ローマ人がイギリスに到着したときに、すでにケント村の人々がリンゴ酒のようなものを飲んでいたという記録がある。

9世紀の初め頃にはローマ帝国とヨーロッパにシードルの飲酒が定着していた。
1066年のノルマン征服の後、イギリスでもシードルが広まり、シードルを作るためのリンゴ園も多く建設され、その頃に cider という単語が生まれたらしい。

中世時代の間、シードル作りは重要な産業であった。 修道院は香辛料のきいたシードルを売ったり、農場労働者は賃金の一部としてシードルを受け取ったりすることもあった。
イギリスのシードル作りは17世紀半ば頃にピークを迎え、その頃は、ほとんどの農場が独自のリンゴ園とプレス(絞り機)を持っていた。

アメリカのアップルサイダーの歴史

アメリカ植民地時代の初期に、イギリス人がシードル用のリンゴの種子をアメリカへ持ってきたことが、アメリカでのサイダーヒストリーの始まりである。
アルコール飲料の原料となる穀物は植民地時代にはうまく育たず輸入するにも費用がかかった。
しかし、リンゴは入手が容易で手頃な価格で生産できたので、シードルはすぐに人気飲料となり一般的に生産されるようになる。
ピューリタンが高アルコール飲料の蒸留酒を非難する一方で、一般の人々の間ではシードルや他の低アルコール飲料は依然として評判が良かったようだ。
アメリカ開拓者の一人である伝説のジョニー・アップルシードが中西部にリンゴの種を植えて回ったことにより、18世紀の間にシードル消費量は着実に増加した。

19世紀、3300万人以上もの移民がアメリカに入国してアメリカ産業に革命をもたらす。
中でも、ドイツ移民は大量のビールを生産する大規模なビール醸造所を作ることができたため、シードルに取って代わりビールが人気を博し始めた。
シードルの生産はまだ小さな農場に限られていたから、生産量の違いが人気の度合いに比例した形になったと言える。

しかしその後、宗教に基づく禁酒運動により、教会に通う人々はアルコールを諦めざるを得ない状況となり、アルコール製造者の肩身は狭くなるのであった。
1920年、ボルステッド法 (国家禁酒法) / Volstead Act (National Prohibition Act) の施行により、アルコールの生産、輸入、販売が禁止となる。
しかし面白いことに、ビールや酒類は全面的に禁止されていたものの、家庭で自然発酵させた「酔わないリンゴ酒と果物ジュース」を200ガロン(約750リットル) までは作ることが合法的に許可されていたのだ。
「酔わない」の定義は0.5%未満のアルコール度数であったというから、現在のアメリカの合法的なノンアルコール飲料と同じである。

シードル生産者たちはここに拠り所を見つけ、シードルの人気を取り戻す可能性もあったのだが、しかし、さらに追い討ちをかけられる。
熱狂的な禁酒支持者やFBIは、リンゴ園が植民地時代から育てた貴重なリンゴ品種を切り倒したり多くのリンゴ園を破壊したりしたのだ。
生き残ったリンゴ園は、シードル用に栽培される高タンニンの苦いリンゴを生産するしかできなかったが、確実に生き延びるために調理用や食事用の甘いリンゴを栽培し始めた。

禁酒法以降、シードル産業は以前の人気ほどまでには回復こそしなかったものの、違う形で徐々に発展していった。
禁酒主義者は発酵したシードルを「悪の醸造」と見なす一方で、新鮮なリンゴジュースは「健康的な飲み物」として認められ販売されていったのだ。
これが、"a simple life on the farm (農場のシンプルライフ)" の意味をも持たせたノンアルコール飲料 sweet apple cider の発展に至った所以である。

*** 出典 ***
The History of the “Forbidden” Fruit
National Apple Museum
The Ancient Origins of Apple Cider
Why Cider Means Something Completely Different in America and Europe

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