意味と翻訳

2017年10月

外国語の意味を把握することと翻訳することは違う。いや、違うというより「意味」を表現したものが「翻訳」だと言う方が適切だろう。
意味 (meaning) とは「その言葉の持つ内容はこうですよ」という「定義 (definition)」だが、
翻訳 (translation) とは「ある言語を異なる言語で表現するならば、こうなりますよ」という一種の表現方法である。

例えば、Thank you の意味や定義は「あなたに感謝する」だが、使われている状況や内容によって和訳はどのようにでも表現できる。

・フォーマルなシーンでは「感謝申し上げます」
・カジュアルなシーンでは「ありがとう」
・サムライ映画のストーリーでは「かたじけない」
・大阪弁を話す人のストーリーでは「おおきに」
などなど…。

逆でも同じことが言える。日本語の「ありがとう」の意味や定義は英語ではThank you だが、
使われている状況や内容によって英訳はどのようにでも表現できる。

・カジュアルなシーンでは Thanks.
・日常やビジネスなどのシーンでは I appreciate it.
・親切に感謝しているシーンでは That’s very kind/nice of you.
・フォーマルなシーンでは Let me express my gratitude to you.
などなど…。

これは2ヵ国語以上を使う人には、当たり前のように身についていることだが、意外にも
「意味」と「訳」を混同している人が少なくない。

流行語などは別として、通常の言葉の「意味や定義」は、何十年何百年という長い時を経て変化することはあっても、数年くらいの短期間で変わることはまずない。
それに対し「訳」は意味を把握するための目安であり、意味さえ合えば内容によってどのような表現でもできる。
外国語を妥当で理解しやすい翻訳にするなら、内容や状況に応じた表現が必要である。
そのために意訳というものが存在する。

本来ならば言語は翻訳などできないものだと私は思う。
英語は英語、日本語は日本語、ドイツ語はドイツ語、韓国語は韓国語…・・・、それぞれにしかない単語や表現が必ずある。
それは長い人間の歴史の中で培われてきたそれぞれの文化が違うからだ。言語は文化と共に歩み発展する。外国語を学ぶことは、同時にその国の文化をも学ぶことに匹敵する。
外国語の習得には、その言語(原語)そのものを捉えようとしてこそ理解を促すと言える。

ある言語の意味を異なる言語で記してある辞書、例えば英和辞典などのような辞書ですら、英語の意味を一番妥当かもしくは近い日本語で表現しているにすぎない。
そこに記されているものは、学習者向けに「意味」を上手く表現してある「訳」である。
ゆえに辞書に記される単語は複数にもなるし、どうかすると説明文にさえなっている。

しかし「ある言語⇔異なる言語」を理解できるのは、お互いに同義の言葉があるから可能なのであって、いくら母国語で説明されていても母国語に同義の単語や用法がなければイマイチ意味が掴めない。
それは、その言葉の背景にある文化が違うからだ。その言語の概念を把握することなしでは理解できないからなのだ。
英語でいうところの助動詞の一部(will, would, shallなど)や未来形や現在完了形が日本人にとって理解が難しいというのが典型的な例だろう。

ところで「学校で教える英語の訳はウソ」なんて謳って意気揚々と英語というものを解説しているウェブや本があるようだ。
ポジティブな見方をすれば、生きた英語を教えたい一心とも取れるが、大概はこのような学校英語批判めいたものは多くが拝金主義くさい。
だから、まともに受け取らずに単なる読み物として読む分には面白いかもしれない。
”そっか、私が英語ができないのは学校でウソを教えていたからなんだ” と安心している人には
申し訳ないが、当然だが学校ではウソなんて教えていない。

普通の学校で教えられる英語は、あくまでも基本的なことであり、教えられる和訳にしても
「意味を把握するための参考文」というだけのことである。
学校ではニュアンスや翻訳の仕方まで教えているわけではない。
ニュアンスは実際に使って実践で学んでいくものであり、まして翻訳なんてプロ級のスキルだ。

要は学校では「英語という道具」の使い方を教えているだけである。
その「英語という道具」にどうやって慣れてコツを得るかは、実際に使わなければ習得できるものではないし、使い続けて熟練してこそニュアンスなどもわかってくるのだ。
例え、机上の勉強だけで最初からニュアンス(道具の使い方のコツ)を教えられたとしても、
使わずしての習得は難しい。まして、言葉は生きているのだから尚更のことだ。

日本語にはない単語や時制などを理解しようと英和辞書や日本語で書かれた参考書とにらめっこしてもイマイチ掴めないことも同じだ。
日本語にはないのだから、所詮日本語で理解しようとしても無理なのだ。
それらを理解するには、ちょうど小さな子供が生活の中で徐々に言葉を覚えていくように、その言葉を何度も聞いたり使ったりして、どのような状況で使うのかを感覚で覚えていくしかない。

そして不思議なことに、一旦「意味」を掴んでしまえば、それについて記されていた理解できなかった「和訳」がそこでスッ理解できるようになる。
そう、日本語にはない英語の単語や用法を理解するのは、
「日本語での解説」→「意味を理解」という通常の形ではなく
「意味を理解」→「日本語での解説を理解」という逆の図式になるのだ。

英語でコミュニケーションを取れる人は当然和訳などしない。英語でコミュニケーションが取れるということは「意味」がわかっているのだから「和訳」を介入させる必要もない。
ニュアンスがわかっていれば尚更のこと和訳はジャマなだけだ。
英語は日本語ではないのだから、下手に和訳などすれば違うものとなってしまう。

英語を話すから通訳ができる、英語の読み書きをするから翻訳ができる、というわけではない。
通訳や翻訳をするには、意味の把握は大前提の上に「自分以外の人に確実に伝える表現力」という更なるスキルが求められる。
しかし、英語でコミュニケーションを取ることは誰だってできる。少しの学習と実践を積んで
意味さえ把握すればよい
からだ。

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